あ(だちとしまむ)ら^~
「私の頭を、撫でてみてくれない?」
そう言って、垂れた頭をしまむらの方に向けた。
上記3巻について読んだので、つらつらと。
自由感想
前々回の記事で、SFと百合を題材にしたアンソロジーを紹介した。
これを機に百合小説へのモチベーションがにわかに再燃した私は、何気なく開いた以下のページである文言を目にした。
それは、
「あ(だちとしまむ)ら^~」
である。
字面はもとより、何となく言葉の響きが面白いので調べてみると、このタイトルのライトノベルがあるらしい。それが『安達としまむら』である。
さっそく近所の古書店へ駆け込んだ私は、既刊10巻(2022年8月時点)のうちとりあえず3巻を手に取りレジへと向かった。
期せずして、ちょうど3巻までで登場人物の高校1年生にかけてのエピソードが描かれていたので、感想をまとめておこうと書き始めたのが本記事である。
本作のメインキャラクターは「安達」と「しまむら」な訳であるが、しょっぱなから大層素行が悪い。素行が悪いと言っても、盗んだバイクを乗り回してガラス窓を叩き割るようなワルさではなく、頽廃的というか、無気力さを感じるようなものなのである。学校には来るくせに、授業には一切出ない。校内の人気のない場所で、学生の笑い声を時折聞きながら、昼休みのチャイムをぼーっと待つ日々......
そんな二人は体育館の2階(というより大きなロフトのような?)、卓球台が並ぶ埃混じりの場所で偶然出会う。
授業に出る気力はない。かといって家にずっといるのも窮屈だ......そんな退屈している二人が何気なく卓球に興じるうち、次第に距離は縮まって......(?)
といった感じのストーリー
本作の魅力は様々あるが、その中でも印象に残ったのが次の3つ
第一に、しまむらの諦観である。今のところ、しまむらは別に人生二周目だとか、ご老体が転生したとかそういったものではない。髪色が黒でないことを含めても、外見だけ見ればよくある女子高生だろう。
しかし、彼女は静かにズレている。自身の行く末に不安を感じ、過去のあれこれに冷めた視線を送り、オトナに反抗する。中高生特有の不安定な心理状態の中にあるからか、(この後述べる)安達の言動あれこれに対する許容範囲がガバガバすぎる。安達の熱量にただ流されているだけかもしれんけど。
周りの人間との関係性に「~かなぁ。」「~だよねえ。」とまったり深い思考へ至るのに、安達の気持ちには非常に鈍感で、何だかんだ安達のおかしな希望には応えていて......ありがちな女子高生に見えて何かがズレている。「いやいや、安達のそのリクエストに応えるんかい!」と思うこともしばしば。何かがおかしい。いろいろ考えながらも結局流される、この脱力感が彼女の魅力なのかもしれない。
そして第二に、安達の妄想の暴走である。いや、もはや妄想では収まらず実際に暴走している。心にゆとりなどあったものではない。年がら年中しまむらのことしか考えていない。しまむらと手を握りたい、しまむらに褒められたい、しまむらがいるなら遊ぶ、しまむら、しまむら、しまむら.......
しまむらが他の女子と並んで歩いているだけで精神が不安定になるヤンデレ依存ぶりである。明らかに彼女には人間が「しまむら」か「それ以外」かに分かれている。
こうしてみると安達の方が圧倒的に尖っているように見える。いや、実際に言動が尖っているのはそうなんだが、しまむらのような斜に構えた感じがない分、まともに見えてしまう不思議だ。ピュアな上に思考がしまむら一色だから、ふと見せるしまむらの言動に過敏に反応する様子が可愛らしい。
最後に、安達としまむらの気まずい距離感が魅力の一つである。百合というと「キャッキャウフフ」しているパターンもあるが、この二人はまるで逆である。はやくくっついてくれ。
静かにズレるしまむらも、熱く暴れる安達も、深層心理ではまだ「私たちは同性同士だし......」という思いが巡っていて、互いに距離感をつかみかねている。そのぎこちなさが歯がゆく、読者は一種の”おあずけ”状態になることで、時たま訪れる、あ(だちとしまむ)ら^~な展開に悶えることができるんだと思う。
特にネタバレになるわけではないので具体的な内容に少し触れると、安達としまむらがカラオケのデュエットに、スピッツの『ロビンソン』を選んだことは印象的だった。歌詞に関係性がマッチしているかと言われればそうでもない、しかし勘違いからは程遠い。この絶妙な二人の距離感が本作のコアなのだ。
5段階評価
★★★★ 4 (良き!!)
なぜその本を読み始めたか
そこに「あ(だちとしまむ)ら^~」という文言があったから
「推し」とその理由
あ(だちとしまむ)ら^~
面白いor参考になる語彙・表現・構成
「あ(だちとしまむ)ら^~」
読了年月日
2022/8/14